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ついに完全版が出たぞぉぉぉぉ!! いや僕に一番最初に始めたシリーズがこの歴史重要用語抑えタイピングなんですよ!(12月だけどね) 縄文~昭和まで全部まとめました!(大正と昭和はタイピング作ってない) 今小6の人、復習してみては?そしてその他の人も復習したり先取りしてみたりして友達と一歩リードしましょう! ※タイピング用じゃないです ※100作るの疲れたから褒めて(⌒∇⌒)
用語一覧(100件)
縄文時代
じょうもんじだい
約1万年前~紀元前3世紀ごろまでの約8000年間の時代。 縄文土器や磨製石器の使用→新石器時代。狩りや漁、採集のくらし。
縄文土器
じょうもんどき
縄目もようをつけたものが多く、厚手で黒かっ色。低温で焼かれたため、こわれやすい。北海道から九州まで広く分布。
竪穴住居
たてあなじゅうきょ
縄文~奈良時代にかけて人が住んでいた住居。地面を50cmほど掘り下げて床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根でおおったもの。4~8人くらいずつで住み、10数戸で集落をつくっていた。
土偶
どぐう
縄文時代につくられた20cmくらいの土の人形。家族の繁栄やえものがとれるように祈ったりするための、まじないに使われたと考えられている。女性の像が多い。
弥生時代
やよいじだい
紀元前3世紀~紀元3世紀の約600年間の時代。 北九州から米づくりが始まり、弥生土器・金属器を使用した。
弥生土器
やよいどき
縄文土器よりうすく、赤かっ色をした土器。高温で焼かれたため、固い。もようがない、または簡単な幾何学的なもようがある。
米作りの始まり
こめづくりのはじまり
2300年ほど前の紀元前300年ごろ(もっと早い時期だったとする説が強まっている)、中国の南部・中部から朝鮮半島を経て北九州に伝わった。
石包丁
いしぼうちょう
稲の穂をつみとるための石器。長さ15cmくらい。
青銅器
せいどうき
弥生時代に、鉄器とほぼ同時に大陸から伝わった。 青銅器は、おもに祭りの道具として使われ、銅剣・銅ほこ・銅鏡・銅たくなどがつくられた。
鉄器
てっき
木製農具をつくる工具として使われ、弥生時代後期には鉄の刃先をつけたくわやすきがつくられた。また、戦いのための武器にも使用され始めた。
むらからくにへ
むらからくにへ
米づくりが広がると、日本列島の各地に大きなむらができてきた。むらとむらは、土地や用水をめぐって争い、力の強いむらは力の弱いむらをしたがえていった。大きなむらは、やがて小さなくににまとまっていった。力のあるむらのかしらは、豪族となってくにを支配した。
金印
きんいん
中国の歴史書『後漢書』に、57年、倭の奴国が使者を送ってきたので、中国(後漢)の皇帝が金印をさずけたことが書かれている。江戸時代に志賀島(福岡県)で発見され、「漢委奴国王」と刻まれている。
邪馬台国と卑弥呼
やまたいこくとひみこ
中国の歴史書『魏志倭人伝』に、3世紀ごろ、倭から30の国が中国に使者を送ってきていること、そのなかに卑弥呼という女王が治めている邪馬台国があって、30ほどのくにをしたがえていたことが書かれている。239年、中国の魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と、金印、銅鏡などをあたえられた。 うらないやまじない(呪術)で政治を行った。
大和朝廷
やまとちょうてい
4世紀の中ごろ、大和(奈良県)の豪族が連合して大きな国になり、5世紀ごろに九州地方から東北地方南部までを統一した。大王を中心とした政治が行われた。
豪族と大王
ごうぞくとおおきみ
その地方に土着し、富と力をたくわえた者が支配者となり、やがて豪族となった。大和朝廷にしたがった豪族は、朝廷の役人として働いた。 大和朝廷の支配者となった、最大の権力を持つ豪族。7世紀ごろから、天皇の称号が使われるようになった。
古墳と埴輪
こふんとはにわ
4~6世紀にかけて、大王や豪族の大きな墓がさかんにつくられた。この約300年間を古墳時代という。大和でつくり始められた前方後円墳のほか、円墳・方墳などがある。 古墳の上やまわりにならべられた素焼きの土器。筒(つつ)型や、人物・動物・家・船などの形をしたものがある。
渡来人
とらいじん
農業・養さん・機織り・焼き物などの大陸の進んだ技術が、渡来人によって伝えられた。
聖徳太子①
しょうとくたいし
593年、おばの推古天皇の摂政となり、蘇我馬子と協力して天皇中心の政治をめざした。 十七条の憲法・冠位十二階を制定し、遣隋使を送り、仏教をあつく保護した。 摂政…天皇が幼いときや女性のとき(女帝)などに、天皇に代わって政治を行う役。聖徳太子がはじめてなった。
聖徳太子②
しょうとくたいし
冠位十二階を定め、役人にその位によって12に分けた冠位をあたえた。家がらに関係なく、才能や手がらのある人を朝廷の役人にとりたてようとした。 十七条の憲法をつくり、朝廷につかえる役人の心がまえを示した。和の尊重、仏教の重視などにより、天皇中心のしくみを整えようとした。 隋の進んだ政治や文化を取り入れるために、小野妹子らをつかわした。隋と対等な国交を開こうとした
法隆寺
ほうりゅうじ
聖徳太子が、奈良盆地の北西部の斑鳩の地に建てた、現存する世界最古の木造建築。金堂・五重塔・講堂などの建物がある。金堂の柱は中央がふくらみ、エンタシスというギリシアの建築様式が取り入れられている。
大化の改新
たいかのかいしん
聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏が権勢をふるった。 645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが、蘇我蝦夷・入鹿親子をたおして政治の実権をにぎった。 唐にならい、はじめて年号を定め、大化とした。 中大兄皇子は皇太子となって、天皇中心の国家をつくろうとした。
平城京
へいじょうきょう
710年、元明天皇が唐の長安にならって、奈良盆地の北部に平城京をつくり、都を移した。
聖武天皇
しょうむてんのう
仏教の力で、乱れた世の中の不安をしずめ国を治めようとした。 国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、奈良には東大寺を建てさせた。 752年、東大寺に金銅の大仏を完成させた。
行基
ぎょうき
渡来人の子孫で、諸国をまわり仏教を広め、東大寺の大仏づくりに協力した。各地にため池や橋をつくり、農民にしたわれた。
鑑真
がんじん
唐の高僧。朝廷の招きで日本に来るのに5度も失敗して失明、6度目に成功した。唐招提寺を建て、律宗を伝えた。
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう
743年、開こんした土地(墾田)は、永久に私有することを認めた。貴族や寺社が私有地(荘園)をふやし、公地公民制がくずれていった。
正倉院
しょうそういん
東大寺にあり、聖武天皇の遺品などが保存されている倉庫。校倉造。
平安京
へいあんきょう
奈良時代の末期には、貴族や僧の争いがはげしくなり政治が乱れた。794年、桓武天皇は京都の平安京に都を移し、天皇中心の政治を立て直そうとした。
源氏物語と枕草子
げんじものがたりとまくらのそうし
源氏…11世紀初めに、紫式部が書いた長編小説。「光源氏」を主人公に、藤原氏全盛期の貴族社会を描写したもの。 枕…11世紀初めに、清少納言が書いた随筆。宮中の生活や自然のようすを、するどい感覚で細やかに表現した。
平清盛
たいらのきよもり
保元の乱・平治の乱に勝利して勢力をのばした。武士で最初の太政大臣となり、武士としてはじめて政治をとった。 平氏一族は全国の半分を支配。藤原氏の政治をまねて貴族的な政治を行った。 大輪田泊(今の神戸)を整え、日宋貿易を進めた。航海の安全を祈るため安芸に厳島神社を建てた。
源平の争乱
げんぺいのそうらん
平氏の貴族的な政治に反感をもつ人々が、平氏打倒の動きを強めた。 1180年に、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵。頼朝の弟の源義経らのはたらきにより、1185年、壇の浦の戦いで平氏をほろぼした。
源頼朝・義経
みなもとのよりともよしつね
頼朝…1185年、国ごとに守護、荘園や公領に地頭を設置し、御家人(頼朝の家来)を任命した。 1192年、征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開いた。鎌倉殿とよばれ、御家人の信望は大きかった。 義経…頼朝の弟。頼朝挙兵に参じ、義仲討伐・平家討伐(一の谷の戦い、屋島の戦い、壇の浦の戦い)に功績を残した。 のち頼朝と不和になり、奥州藤原氏のもとにのがれたが、自殺した。
守護・地頭
しゅご・じとう
守護・・・国ごとにおかれ、軍事・警察や御家人の統制にあたった。 地頭・・・荘園や公領におかれ、土地管理、年貢の取り立てなどにあたった。
承久の乱
じょうきゅうのらん
源氏の将軍がたえると、1221年、朝廷の勢力を回復しようとしていた後鳥羽上皇が兵をあげた。これに対して幕府側は、北条政子のよびかけで御家人の団結をかため、勝利をおさめた。乱の後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、朝廷の勢力はおとろえた。幕府は京都に六波羅探題をおき、朝廷や西国武士を監視した。
足利義満・義政
あしかがよしみつよしまさ
義満…室町幕府3代将軍。山名・大内氏などの有力守護大名をおさえて幕府の権力を確立した。 京都の室町に「花の御所」を、出家して後、北山に金閣を建てた。 義政…室町幕府の8代将軍。一揆のひん発と銀閣の造営などによる財政難で政治を乱した。 将軍のあとつぎ問題が、応仁の乱の原因の一つになった。
応仁の乱
おうにんのらん
守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)の対立に、将軍足利義政のあとつぎ問題などがからんで起こった11年間の大乱。 京都は焼け野原になり、幕府の権威はおとろえた。乱の後、戦乱は地方に広がり、約100年間の戦国時代に入った。
鉄砲の伝来
てっぽうのでんらい
1543年、ポルトガル人を乗せた中国の船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。 戦国大名の注目を集め、堺(大阪府)や近江・国友(滋賀県)などでさかんにつくられた。
キリスト教の伝来
きりすときょうのでんらい
1549年、イエズス会のスペイン人宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えた。 ザビエルは鹿児島・山口・京都などで2年あまり布教を続けた。ザビエルの後も宣教師が来日し、各地の大名の保護を受けて布教につとめた。
安土桃山時代
あづちももやまじだい
織田信長から豊臣秀吉にかけての約30年間。信長が築いた安土城と、秀吉が京都の桃山に築いた伏見城に由来する。
織田信長
おだのぶなが
尾張(愛知県)の戦国大名。1560年、桶狭間の戦いで今川義元をたおし、「天下布武」の印を用いて天下統一の業をすすめた。 1573年、将軍足利義昭を京都から追放して室町幕府をほろぼし、近畿を平定した。 安土城を築き、交通を整備し関所を廃止し、楽市・楽座令を出して商工業の発展をはかった。 1582年、家来の明智光秀にそむかれて本能寺の変で自害した。
豊臣秀吉①
とよとみひでよし
本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀をたおし、織田信長の後継者となった。 大阪城を築き、関白・太政大臣となった。 1590年、北条氏(小田原)をほろぼし、東北の伊達氏をしたがえて、全国統一を完成した。
豊臣秀吉②
とよとみひでよし
太閤検地…秀吉が、土地と農民を支配するために全国的に行った検地。これによって荘園制がなくなった。 長さ・面積・量の単位を統一し、土地を収穫高(石高)で表し、耕作者を検地帳に登録した。 刀狩令を出して、農民から武器を取りあげた。農民の一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしたもの。 太閤検地と刀狩りによって、農民と武士の身分がはっきり区分された(兵農分離)。
関ケ原の戦い
せきがはらのたたかい
豊臣秀吉の死後、徳川家康の勢力がまし、豊臣方の石田三成は兵をあげてこれをほろぼそうとした。 1600年、全国の大名たちが豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)に分かれて関ヶ原(岐阜県)で戦った。「天下分け目の戦い」といわれ、家康が勝った。
徳川家康
とくがわいえやす
三河(愛知県)の小さな大名だったが、織田信長の統一事業にしたがって手柄をたて、ついで豊臣秀吉にもつかえて重く用いられた。 関ヶ原の戦いに勝ち、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。以後の約260年間を江戸時代という。 大名は、徳川将軍家との関係から、親藩・譜代・外様の三つに区分された。将軍直属の家臣として、旗本・御家人がいた。
参勤交代
さんきんこうたい
3代将軍徳川家光のとき、武家諸法度のなかに参勤交代の制度が定められた。 全国の大名を1年おきに江戸と領地に住まわせ、その妻子を江戸に住まわせた。往復で大名行列が行われ、交通が発達し、文化が地方に広まった。
武家諸法度
ぶけしょはっと
1615年に、大名を取りしまるために定めた。将軍の代替わりごとに発せられ、違反者はきびしく罰せられた。
キリスト教と幕府の流れ
きりすときょうとばくふのながれ
…省略 キリシタンが団結して反抗するのをおそれた。そして、1612年、家康は直轄地でのキリスト教の禁止を命じた。キリシタンを発見するため、キリストやマリアの像をふませた。 3代将軍徳川家光のときの、日本人の海外渡航と帰国を禁止した。 ポルトガル船の来航を禁止して、鎖国を完成させた。 鎖国後の貿易は、オランダと中国の2国になった。
島原の乱
しまばらのらん
1637年、九州の島原(長崎県)・天草(熊本県)地方の農民が、領主の圧政に対し反乱を起こした。 16歳の天草四郎を頭(かしら)とし、原城にたてこもったが、翌年、幕府軍にしずめられた。
五人組と年貢
ごにんぐみとねんぐ
村は、だいたい数十戸からなっていたが、幕府や藩は、5戸ぐらいを1組とする五人組をつくらせ、年貢の納入や防犯、キリスト教の禁止などに共同責任をおわせた。 検地帳に登録された農民(本百姓)は、領主に年貢を納める義務があった。 年貢は米で納めるのが原則で、収穫高の4割前後(四公六民)、5割前後(五公五民)など、藩によって、年によってちがいがあった。
国学と蘭学
こくがくとらんがく
国学…日本の古典を研究し、日本古来の考え方を究明する学問。本居宣長「古事記伝」を書き、国学を大成した。 蘭学…オランダ語を通じて学ばれたヨーロッパの学問や文化。 関孝和・・・数学(和算) 杉田玄白・前野良沢・・・「解体新書」 平賀源内・・・エレキテル 伊能忠敬・・・「大日本沿海輿地全図」
寺子屋
てらこや
農民や町民の子の教育施設。僧や浪人などが、読み・書き・そろばんなどを教えた。
百姓一揆・打ちこわし
ひゃくしょういっきうちこわし
百姓一揆・・・農民が年貢の軽減や村役人の不正などをうったえて、集団で領主に反抗した。 打ちこわし・・・都市部で、町人や農民が集団で米屋や大商人をおそい、家屋や家財を破壊した。
大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん
1837年、元幕府の役人で陽明学者の大塩平八郎が、同志の人々約300人とともに、ききんで苦しむ人々を救うよう幕府にせまる乱を大阪で起こした。乱は半日で鎮圧され、大塩は自殺したが、幕府や社会にあたえた影響はひじょうに大きかった。
ペリー①
ぺりー
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4せきをひきいて浦賀(神奈川県)に来航。幕府に国書を提出して、日本の開国を強く求めたが、幕府は翌年に回答することを約束して、ひとまずペリーを帰らせた。
ペリー②
ぺりー
1854年、ペリーが再び来航し、幕府に強く回答を求めた。幕府はやむなく日米和親条約を結び、下田(静岡県)・函館(北海道)を開港した。これによって、約200年間の鎖国が終わった。 1858年、日米修好通商条約を結び、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫を開いた。 アメリカの治外法権を認め、日本に関税自主権のない不平等な条約だった。 同じようなものを五ヶ国のちに結ぶ。
大政奉還
たいせいほうかん
1867年、15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上(大政奉還)を申し出、朝廷はこれを受け入れた。265年間つづいた江戸幕府はほろび、鎌倉幕府から670年あまりにわたった武家政治も終わりをつげた。
王政復古の大号令
おうせいふっこのだいごうれい
1867年に大政奉還が行われ、天皇は王政復古の大号令を発した。翌1868年、年号を明治、江戸を東京と改めて、天皇中心の新政府樹立をめざした。
五か条の御誓文
ごかじょうのごせいもん
1868年、新政府が天皇中心の体制を固めるために、天皇が神にちかう形で、五か条の御誓文を公布した。 ひろく意見を聞いて政治を行い、外国から新しい知識を取り入れて国を発展させていこうというもの。
版籍奉還
はんせきほうかん
藩主の土地(版)と人民(籍)を天皇に返させ、旧藩主を知藩事に任命した。 薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の4藩主がまず行い、その他の藩主もつぎつぎにこれにならった。
廃藩置県
はいはんちけん
版籍奉還の後も旧藩主と人民との間には、以前と同じような領主と領民の関係が続き、政府が直接支配ができなかった。そこで、1871年、藩を廃止して新しく府や県をおき、政府から府知事・県令が任命された。 新政府のもとに全国が統一され、中央集権国家の土台ができた。
四民平等
しみんびょうどう
士農工商を廃止し、士農工商は平等との原則にもとづいて、天皇の一族を皇族、公家・大名を華族、武士を士族、農工商を平民とした。 平民にも苗字(みょうじ)が許され、他の身分との結婚や住居移転、職業が自由になった。
富国強兵
ふこくきょうへい
政府は、日本を欧米列国に負けない強い近代国家に育てようと、富国強兵につとめた。 そのなかで重要な政策となったのが、徴兵制度、地租改正、殖産興業。
徴兵制度
ちょうへいせいど
1873年に徴兵令を発布、20歳以上の男子は身分に関係なくすべて3年間の兵役につくことになった。 近代的な軍隊制度が整った。
地租改正
ちそかいせい
富国強兵をすすめるため、財政の基礎をつくる必要があった。そこで地租改正にふみきり、地価(土地のねだん)を決め、地価の3%を地租(税)として現金で納めさせた。 地租は収穫高に関係なく、政府の収入が安定、国家財政の基礎が固まった。
殖産興業
しょくさんこうぎょう
国を富ませるために、官営工場をつくり、鉱山を開発したりした。 富岡製糸場・・・官営もはん工場として、群馬県の富岡に製糸工場が建てられた。フランスの機械や技術を導入。士族の娘たちが女工として働いた。
岩倉使節団
いわくらしせつだん
政府は、不平等条約の改正を外交の方針とし、その下交渉と欧米の事情を調べることを目的として、岩倉具視らを欧米使節団として派遣した。
学制
がくせい
政府は、近代国家の土台は教育にあると考え、1872年に学制を発布し、全国に小学校をつくって義務教育の制度をとりいれた。 (大学と私立学校) ・昌平坂学問所⇒東京大学 ・慶応義塾(福沢諭吉) ・東京専門学校(大隈重信)⇒のちの早稲田大学 ・同志社英学校(新島襄)など
文明開化
ぶんめいかいか
欧米の思想や制度のほか、生活・風俗もとりいれられ、国民生活が欧米風に大きく変わった。 太陽暦の採用・・・1872年、それまでの太陰暦を改め、太陽暦を採用、また七曜制(1週を7日とする)がとりいれられた。 電信・鉄道が開通、郵便事業もはじまり、町には人力車や馬車が走り、れんが造の建物やガス灯が建てられた。人々の間には、洋服、肉食が広まった。
福沢諭吉
ふくざわゆきち
豊前中津藩の士族。「学問のすすめ」を出版し、封建的な生活をやぶり、個人の自主独立と実学の尊重をとなえた。幕末に欧米に留学し、帰国後、慶応義塾を開き、人材を育成した。
西南戦争
せいなんせんそう
1877年、鹿児島の士族が西郷隆盛をかついで政府に反抗した。西郷は、近代的な政府軍に敗れ、自殺。 武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論を中心に行われるようになった。
自由民権運動①
じゆうみんけんうんどう
イギリス・フランスの民権思想が普及し、自由民権運動が高まった。 藩閥政治・・・政府の要職を、薩摩・長州藩出身者が独占。 1874年、土佐の板垣退助は、後藤象二郎や佐賀の江藤新平、副島種臣らとともに、民選議院設立の建白書を政府に提出した。 1874年、板垣退助らは高知で立志社を設立、国会期成同盟に発展。
自由民権運動②
じゆうみんけんうんどう
1881年、北海道開拓使官有物払下げ事件がおこると、藩閥政府に対する非難がはげしくなった。 政府は、非難をかわすために、1881年、10年後(1890年)に国会を開設することを約束した。 自由党・・・1881年、板垣退助らが結成。フランス流の急進的な自由主義を主張。 立憲改進党・・・1882年、大隈重信らが結成。イギリス流のおだやかな議会政治を主張。
伊藤博文
いとうひろぶみ
1881年の国会開設の詔で10年後に国会開設を約束した政府は、翌年、伊藤博文をヨーロッパに派遣し、各国の憲法を調査させた。帰国後、秘密で憲法草案をつくった。 大久保利通の死後、政府第一の実力者となり、初代の内閣総理大臣になった。
大日本帝国憲法
だいにっぽんていこくけんぽう
1889年、天皇が国民にあたえるという形(欽定憲法)で、大日本帝国憲法が発布された。 君主権の強いプロシア(ドイツ)の憲法を手本につくられた。 天皇主権で、国の統治権・陸海軍の統帥権など、強い権限をもった。国民の権利と自由は、法律の許す範囲で認められた。
日清戦争
にっしんせんそう
日本が朝鮮半島に進出し、朝鮮を属国とみなしていた清国と対立した。 1894年、朝鮮で外国勢力の追放をめざす農民が、東学党という宗教団体と結んで兵をあげた(東学党の乱)。日本と清が出兵して対立を深め、日清戦争のきっかけとなった。 1894年、日清戦争がおこり、日本軍の連戦連勝ですすみ、清国が降伏、講和を申しいれた。
下関条約
しものせきじょうやく
日清戦争に勝利した日本は、1895年、下関で講和条約を結んだ。 ①清は、朝鮮の独立を認め、朝鮮から手を引くこと。 ②清は、台湾・遼東半島などを日本にゆずる。 ③清は、賠償金2億両を日本に支払う。
日英同盟
にちえいどうめい
ロシアは満州・朝鮮へ勢力をのばし、日本にとって大きな脅威となった。1902年、日本はイギリスと軍事同盟(日英同盟)を結んで、ロシアの進出にそなえた。
日露戦争
にちろせんそう
満州と朝鮮をめぐる対立から、1904年、日露戦争がおきた。 戦争は中国大陸の南満州を中心に行われ、日本軍は苦戦しながらも旅順・奉天の戦いで勝利した。 日本海海戦で、東郷平八郎ひきいる海軍がロシアのバルチック艦隊を破った。 一部の国民は戦争に不安をもち、孝徳秋水や内村鑑三らが戦争に反対、与謝野晶子は出征した弟を心配する詩をよんで国民の心をとらえた。
ポーツマス条約
ぽーつますじょうやく
1905年、アメリカのルーズベルト大統領のなかだちにより、アメリカのポーツマスで日露戦争の講和条約が結ばれた。 ①日本が韓国を指導・保護することを認める。 ②樺太の南半分を日本にゆずる。 ③遼東半島の南部の租借権を日本にゆずる。 ④南満州鉄道の権利を日本にゆずる。
韓国合併
かんこくがっぺい
日露戦争後、日本は韓国に統監府をおいた。 初代統監伊藤博文が暗殺されたことがきっかけで、1910年、韓国を併合した。
鹿鳴館
ろくめいかん
外務卿の井上馨は、不平等条約改正を成功させるため、欧米をまねる欧化政策をとった。 東京に社交場の鹿鳴館を建て、外国の外交官と舞踏会を開くなどした。
ノルマントン号事件
のるまんとんごうじけん
1886年、イギリスの貨物船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没し、イギリス人船員はボートで脱出したが、日本人乗客25人は全員見殺しにされた。 イギリス領事が裁判を行い、船長を軽い罪にしたことから、治外法権廃止を求める声が高まった。
不平等条約の改正
ふびょうどうじょうやくのかいせい
治外法権廃止・・・1894年、外務大臣陸奥宗光がイギリスとの交渉で成功させた。 関税自主権の回復・・・1911年、外務大臣小村寿太郎がアメリカとの交渉で成功させた。
産業革命
さんぎょうかくめい
第一次産業革命・・・19世紀末ごろから、製糸、紡績などの軽工業が発達。 第二次産業革命・・・日露戦争前後、製鉄・機械・造船などの重工業が発達。
八幡製鉄所
やはたせいてつじょ
日清戦争の賠償金の一部でつくられた官営工場。1901年から操業をはじめた。 原料の鉄鉱石を中国から輸入、石炭は筑豊炭田を開発してあてた。日本の製鉄業の中心として、重工業の発展をささえた。
足尾銅山鉱毒事件
あしおどうざんこうどくじけん
栃木県の足尾銅山の鉱毒が、渡良瀬川流域の住民に大きな被害をあたえた。衆議院議員の田中正造が、帝国議会でこの問題をとりあげたが弾圧され、1901年に天皇に直訴した。
関東大震災
かんとうだいしんさい
1923年9月1日に発生した関東大震災で、東京・横浜が大きな被害を受け、経済も混乱、不景気が深刻化した。 混乱のなか、多くの朝鮮人や社会主義者が殺された。
普通選挙法
ふつうせんきょほう
1925年、加藤高明内閣は、普通選挙法を制定し、満25歳以上のすべての男子に選挙権をあたえた。 普通選挙法の成立と同時に、治安維持法が成立し、労働運動や社会運動を取りしまった。
明治・大正時代の文化
めいじたいしょうじだいのぶんか
教育制度がととのい、欧米の科学・技術がとりいれられ、自然科学が発達した。 交通機関の発達・ラジオ放送の開始、娯楽の普及など、生活が近代化した。 [医学] 北里柴三郎(破傷風)・志賀潔(赤痢菌)・野口英世(黄熱病) [文学] 芥川龍之介「羅生門」・石川啄木・小林多喜二「蟹工船」・志賀直哉(白樺派)・島崎藤村・夏目漱石「吾輩は猫である」・樋口一葉・森鴎外「舞姫」
満州事変
まんしゅうじへん
1931年、日本軍が奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した(柳条湖事件)。 これを中国軍の行為であるとして、満州に進撃し満州事変をおこし、翌年、満州国をつくった。
日中戦争
にっちゅうせんそう
1937年、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍がしょうとつし、日中戦争が始まった。日本軍は首都の南京を占領した。
太平洋戦争
たいへいようせんそう
日本は資源を確保するために東南アジアへの進出をめざしたが、アメリカはきびしい経済封鎖の措置をとって日本を追い詰めた。 1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まった。 はじめのうちは、東南アジアや太平洋の島々を次々に占領し、日本軍の優勢のうちに展開した。
沖縄戦
おきなわせん
1945年4月、アメリカ軍が沖縄に上陸し、2か月後に日本軍は全滅した。 沖縄の女子学生(ひめゆり部隊)や中学生も戦い、一般県民の死者が軍関係者の死者を上回った。
日本の敗戦
にほんのはいせん
1943年にイタリア、1945年5月にドイツが降伏、ヨーロッパでの戦争が終結した。 アメリカ軍は1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下した。 1945年8月6日、日本はポツダム宣言受諾を決め、降伏した。
日本国憲法
にほんこくけんぽう
1946年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行された。 国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三原則。 天皇は、日本国や日本国民の象徴とされた。
農地革命
のうちかくめい
1946年から数年にわたり農地改革が行われた。 政府が小作地を強制的に買い上げ、小作人に安く売った。多くの小作人が自作農となった。
労働三法
ろうどうさんほう
労働者の権利を保護するため、労働組合法・労働基準法・労働関係調整法の労働三法が制定された。 労働組合法によって、労働者の団結権・団体交渉権・争議権が保障された。 1946年5月1日、メーデーが復活した。
教育基本法
きょういくきほんほう
1947年、教育勅語が廃止され、教育の機会均等・義務教育・男女共学などを内容とする教育基本法が制定された。 義務教育が9年に増え、六・三・三・四制の学校制度となった。
平成・令和
へいせい・れいわ
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本当に、、、、よく頑張ったよ、、、、