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戦国大名をうっていってください
用語一覧(16件)
浅井長政
あざいながまさ
戦国時代の武将織田信長の妹を娶 (めと) る。 六角氏の内紛に乗じ信長に協力して近江南部を平定し,足利義昭 (よしあき) の上洛を護衛した。 のち1570年姉川の戦いでは朝倉義景に味方して信長と戦って敗れ,'73年小谷城で自刃し,浅井氏は滅亡した。
織田信長
おだのぶなが
織田信長は、1576年、近江(おうみ〔滋賀県〕)に安土城(あづちじょう)を築きました。 そして、楽市・楽座(らくいち・らくざ)という政策を行います。 これは、安土の町で同業者の組合である座(ざ)を廃止し、自由に商売ができるようにしたものです。 また、関所(せきしょ)を廃止し、商人を移動しやすくしました。
豊臣秀吉
とよとみひでよし
全国統一を実現 ... 独裁政治 ... 刀狩と身分制度確立 ... 外交政策:キリシタン迫害と朝鮮出兵 ... 華麗な桃山文化と歌舞伎の誕生
徳川家康
とくがわいえやす
徳川家康は、江戸幕府の初代将軍です。 1603(慶長8)年に開かれた江戸幕府は、その後260年以上も政治の中心であり続けました。 家康は、1542(天文11)年12月26日、三河(現在の愛知県)に生まれました。 世は、まさに戦国時代で、今もその名を轟(とどろ)かせる武将たちが各地で激しい戦いを繰り広げていました。
石田三成
いしだみつなり
戦乱を治め、世の中の平和を実現しようと太閤検地など多くの政策に携わったといわれ、制度を整えていった時代の立役者でした。 その心は、旗印に掲げた「大一大万大吉」にも表れていました。
上杉謙信
うえすぎけんしん
上杉謙信(うえすぎけんしん)は、戦国時代に越後国(現在の佐渡ヶ島以外の新潟県)を統一した、山内上杉家16代当主の戦国武将です。 内乱が長く続いた越後国を平定し、繁栄させるために尽力しました。 また上杉謙信は、戦国最強とよばれた武田信玄率いる武田軍と川中島で5度も戦うなど、戦の才能を持っていた武将として知られています。
武田信玄
たけだしんげん
戦国武将・武田信玄というと、上杉謙信との川中島の合戦があまりにも有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しています。 特筆されるのは釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。 信玄が領民に慕われ、現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、民政に力を入れていたからではないでしょうか。
今川義元
いまがわよしもと
「海道一の弓取り」(東海道一の優れた武士)と評され、武田 信玄、北条 氏康(うじやす)とも互角に渡り合い、諸国に恐れられていた名将であり、内政面では、父である今川 氏親(うじちか)が制定した分国法「今川仮名目録」の追加法を制定するなどして、自国領内の統治に優れた手腕を発揮した政治家でした。
伊達政宗
だてまさむね
仙台藩藩主となる 徳川家から62万石の領地を手に入れたことをきっかけに、伊達政宗は仙台城に拠点を移し、仙台藩の初代藩主となります。 神社や寺、川の土木工事などを積極的に行うことで人民の生活向上へ貢献し、江戸へ米を運搬できる環境を整えました。
最上義光
もがみよしあき
12代山形城主。 伊達氏や上杉氏ら周辺大名と領有を争い、関が原の合戦後ついに戦功が認められ57万石の大名となる。 山形城築城、二日町から八日町に及ぶ商人街の育成、新田開発、最上川の舟運整備など山形藩興隆の祖として現在まで数々の偉功が伝えられている。
南部晴政
なんぶはるまさ
南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥国の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む。南部氏24代当主[1]。
長宗我部元親
ちょうそかべもとちか
戦国武将・長宗我部元親は、土佐(現・高知県)の小領主から身を起こし、土佐一国を平らげて、ついには四国全土をほぼ一代で征服した英傑である。 中国地方の毛利氏、南九州の島津氏と並んで、西日本3大勢力の1つに数えられるまでにのし上がった。 戦国の四国出身者で、元親の偉業に迫り得た人物はいない。
毛利元就
もうりもとなり
毛利元就 もうりもとなり (1497-1571)は、戦国時代に郡山城を拠点として中国地方のほぼ全域を制覇し、一代で大国を築き上げた「戦国の雄」と称された戦国大名です。 75歳で病死するまで二百数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。
島津義弘
しまずよしひろ
三州統一、九州攻略、朝鮮の役、関ヶ原合戦などに従事し、常に戦地最前線で指揮。 島津家の勢力拡大を支えた中心的人物だった。 義弘は「武」のイメージが強いが、学問や産業振興に秀でた文化人でもあり、茶道は千利休直伝。 豊臣秀吉の九州平定後、関白秀吉が主催する茶会に招かれ主賓扱いの厚遇も受けている。
朝倉義景
あさくらよしかげ
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景 朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。 浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。
宇喜多秀家
うきたひでいえ
宇喜多秀家 この間の天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。 その城普請には秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城(岡山城の前身)の東隣の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。 同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築いた。