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中学の歴史の教科書に載ってるものがほとんどです。 〜の戦いが多めです。 個人的に懐かしい気持ちになりました。 改めて見てみると勉強や復習になりますので一度プレイしてみてください!
用語一覧(62件)
白村江の戦い
はくそんこうのたたかい
663年 初の対外戦争が勃発します。それが「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)です。「唐」(とう)・「新羅」(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた「百済」(くだら)の遺臣「鬼室福信」(きしつふくしん)から救援要請を受けた倭の「斉明天皇」(さいめいてんのう)は、出征を決断。朝鮮半島の南「白村江」で唐・新羅連合軍と戦いましたが、一敗地にまみれました。
壬申の乱
じんしんのらん
672年 「壬申の乱」(じんしんのらん)は672年(天武天皇元年)、皇室内において「天智天皇」(てんじてんのう)の後継者争いが原因で勃発しました。
大宝律令
たいほうりつりょう
701年 法律である「大宝律令」(たいほうりつりょう)。大宝律令は、日本で初めて行政法と民法、そして刑法の3つがそろえられた本格的な法律として施行された物。
長岡京への遷都
ながおかきょうへのせんと
784年 781年(天応元年)に即位した第50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)は、784年(延暦3年)、都だった「平城京」を捨て、「長岡京」へ遷都しました。
薬子の変
やくしのへん
810年 「薬子の変」(くすこのへん)とは、平安時代初期の810年(大同5年)に起こった政変です。
応天門の変
おうてんもんのへん
866年 「応天門の変」(おうてんもんのへん)は、平安時代であった866年(貞観8年)に発生した宮廷内の政変です。
遣唐使廃止
けんとうしはいし
894年 894年(寛平6年)、約260年続いていた「唐」(とう:現在の中国)に使節を派遣する「遣唐使」(けんとうし)が廃止されました。
平将門の乱
たいらのまさかどのらん
939年 「平将門の乱」では、自らを「新皇」(しんのう)と称して天皇になることを宣言します。
前九年の役
ぜんくねんのえき
1051年 「前九年・後三年の役」とは、平安末期の陸奥国・出羽国(東北地方)で起こった2大戦役で、陸奥国の俘囚(ふしゅう:朝廷の支配下にある蝦夷[えぞ])と源氏との間に起きた戦争
後三年の役
ごさんねんのえき
1083年 「後三年の役」は奥州の支配者・清原氏の内紛に、陸奥守(むつのかみ)である源義家が介入して起きた戦いです。この戦いの結果、清原氏は消滅して、奥州藤原氏へと繋がっていくこととなりました。
平清盛が太政大臣に
たいらのきよもりがだじょうだいじんに
1167年 平安時代末期の武将で、武家政権を樹立したことで知られる「平清盛」(たいらのきよもり)。1167年(仁安2年)、平清盛は、朝廷から武士として初めて「太政大臣」に。
源平合戦
げんぺいかっせん
1180年 「保元の乱」から1192年(建久3年)の源頼朝の征夷大将軍就任までを指します。
壇ノ浦の戦い
だんのうらのたたかい
1185年 「壇ノ浦の戦い」が起こったのは平安時代末期の1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日のこと。長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)を舞台としたこの戦いで、平氏が滅亡。
鎌倉幕府
かまくらばくふ
1185年 「鎌倉幕府」は、1185年(文治元年)「源頼朝」(みなもとのよりとも)によって鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に樹立された武家政権。
奥州合戦
おうしゅうかっせん
1192年 鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争
承久の乱
じょうきゅうのらん
1221年 「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、全国各地の武士に対して幕府の執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)追討の「院宣」(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発し、鎌倉幕府打倒を目論んだ。
元寇
げんこう
1274年 元寇(蒙古襲来)は、「文永の役」と「弘安の役」の2度、日本にモンゴルが攻めてきたというような内容。
元弘の乱
げんこうのらん
1331年 「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の倒幕計画に同調した勢力が蜂起して起きた「元弘の乱」によって、ついに滅亡へと追い込まれました。
延元の乱
えんげんのらん
1335年 「延元の乱」(えんげんのらん)とは、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)ら足利氏と「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の建武政権との間で起こった一連の戦いのことです。
湊川の戦い
みなとがわのたたかい
1336年 摂津国湊川で「足利尊氏」(あしかがたかうじ)率いる尊氏軍と「新田義貞」(にったよしさだ)、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を中心とする朝廷軍(官軍)が対峙。
室町幕府
むろまちばくふ
1338年 「室町幕府」は、1338年(暦応元年)に、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)によって京都に樹立された武家政権です。
筑後川の戦い
ちくごがわのたたかい
1359年 日本三大合戦のひとつとして知られているのが、「筑後川の戦い」。九州最大の合戦
土岐康行の乱
ときやすゆきのらん
1389年 「土岐康行の乱」(ときやすゆきのらん)は、1389年(康応元年)から1390年(明徳元年)にかけて起きた事件。
明徳の乱
めいとくのらん
1391年 「明徳の乱」(めいとくのらん)は、1391年(明徳2年/元中8年)に有力守護大名「山名氏清」と「山名満幸」が室町幕府に対して起こした反乱のこと
南北朝合一
なんぼくちょうごういつ
1392年 南北朝時代は、「南朝」と「北朝」2つの朝廷が並存した時代のこと。
永享の乱
えいきょうのらん
1438年 「永享の乱」(えいきょうのらん)は、1438年(永享10年)に関東で起こった戦乱です。
享徳の乱
きょうとくのらん
1455年 「享徳の乱」(きょうとくのらん)は1467年(応仁元年)から11年間にわたる「応仁の乱」(おうにんのらん)に先駆けて、関東で起こった戦乱です。戦いは断続的に28年間続いた。
応仁の乱
おうにんのらん
1467年 室町幕府が衰退した理由とも言われる「応仁の乱」。11年という長い争いにより、戦国時代へと続くきっかけとなった。
長享の乱
ちょうきょうのらん
1487年 10年間続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)によって室町幕府は疲弊し、関東の支配が行き届かなくなったことにありました。今回は、18年もの長い間続いた長享の乱
川中島の戦い
かわなかじまのたたかい
1553年 「川中島の戦い」とは、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)の12年間、5回に亘る伝説の合戦の総称です。宿敵である甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の戦い。
桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい
1560年 織田信長が4,000人ばかりの兵を味方に、2万5千人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利しました。
長篠の戦い
ながしののたたかい
1575年 織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に圧勝した戦いです。
本能寺の変
ほんのうじのへん
1582年 明智光秀が13,000人もの大軍を率いて、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲。防戦空しく対抗し切れないと悟った信長は、寺に火を放って自害しました。
山崎の戦い
やまざきのたたかい
1582年 「本能寺の変」で命を落とした織田信長。それを知った羽柴秀吉は信長の敵を討つために中国遠征を中断し、約2万の全軍で京を目指しました。そして約10日後の6月13日、摂津国と山崎国の境に位置する山崎において明智光秀と激突。
賤ヶ岳の戦い
しずがたけのたたかい
1583年 1582年(天正10年)6月13日に起こった「山崎の戦い」で、織田信長の仇を討った羽柴秀吉。「清洲会議」で織田信長の後継者争いをした柴田勝家と徐々に対立が深まっていった戦い。
小牧・長久手の戦い
こまきながくてのたたかい
1584年 1584年(天正12年)3~11月に行なわれた、「羽柴[豊臣]秀吉」陣営と「織田信雄[おだのぶかつ]・徳川家康」陣営の間の戦いです。
文禄の役
ぶんろくのえき
1592年 釜山経由で、西国の大名を中心に編成した大軍を朝鮮半島に送り込んだ
慶長の役
けいちょうのえき
1597年 1597年(慶長2年)に西国(主に九州・中国・四国地方)の諸大名に対して動員令を発令。朝鮮半島に向けて約14万人の大軍を送り込み、「慶長の役」が始まりました。
関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい
1600年 1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が勝利。
江戸幕府
えどばくふ
1603年 1603年(慶長8年)、「徳川家康」が征夷大将軍に任命され「江戸幕府」を開きました。江戸幕府は、室町時代から続いてきた戦乱の世に終わりを告げ、265年におよぶ長期政権に。
大坂冬の陣
おおさかふゆのじん
1614年 1614年(慶長19年)11~12月、大坂で豊臣軍と徳川軍が対峙する合戦が発生しました。開戦後、早々に大坂城での籠城戦を選択。
大坂夏の陣
おおさかなつのじん
1615年 1615年(慶長20年)4~5月。豊臣家と徳川家は、再び大坂の地で相まみえます。情勢は徳川軍の圧倒的優勢。戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡。
武家諸法度
ぶけしょはっと
1615年 江戸幕府の2代将軍「徳川秀忠」が公布した全国の大名達に規範を示した法令です。
踏み絵
ふみえ
1629年 江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。その中で江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すための制度。
参勤交代
さんきんこうたい
1635年 「参勤交代」は、江戸時代にあった制度のひとつ。徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的とした制度であり、諸大名は1年交代で、江戸と領地それぞれに在住することが義務付けられていた。
島原の乱
しまばらのらん
1637年 1637年(寛永14年)12月11日から1638年(寛永15年)4月12日の間、日本の歴史上最大規模の一揆。
生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい
1685年 「天下の悪法」と評された「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)によって制定されました。
元禄赤穂事件
げんろくあこうじけん
1701年 江戸時代において「仇討ち」(あだうち)は、武士に許されていた合法な制度であり、届け出さえすれば、仇討ちを実行することが認められていました。
享保の大飢饉
きょうほうのだいききん
1732年 1732年(享保17年)に「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)が発生し、西日本の諸国は、甚大な被害を受けました。
天明の大飢饉
てんめいのだいききん
1782年 「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)とは、1782~1788年(天明2~8年)にかけて起きた大飢饉。
異国船打払令
いこくせんうちはらいれい
1825年 しかし、江戸時代後期になると、アメリカやイギリスなど欧米諸国の船が日本近海に現れ、外国船の追放を図った。
天保の大飢饉
てんぽうのだいききん
1833年 江戸時代の日本の気候は寒冷で、たびたび冷害や洪水が起こったと記録されています。異常気象が原因で凶作となり、飢饉が起こることが少なくありませんでした。
ペリー来航
ぺりーらいこう
1853年 江戸幕府が外国船の入船や交易を制限する「鎖国政策」を敷く中、突如「浦賀」(現在の神奈川県横須賀市)に現れた4隻の黒い戦艦。
明治維新
めいじいしん
1853年 1853年(嘉永6年)、アメリカの「ペリー」率いる艦隊が、日本に開国を求めて浦賀に来航したことを発端に、徳川家による江戸幕府の統治体制が崩壊。
桜田門外の変
さくらだもんがいのへん
1860年 「桜田門外の変」は、尊皇攘夷派(そんのうじょういは:天皇を守るために外国勢を排除する思想を持った一派)の浪士が起こした大老「井伊直弼」暗殺事件のこと。
薩英戦争
さつえいせんそう
1863年 「薩英戦争」(さつえいせんそう)は、幕末(江戸時代末期)に、薩摩藩とイギリス艦隊との間に起こった戦争のことです。
池田屋事件
いけだやじけん
1864年 「池田屋事件」は、1864年(元治元年)6月5日に京都で起こった、「新撰組」による尊王攘夷派弾圧事件です。
長州征伐
ちょうしゅうせいばつ
1864年 「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)とは、1864年(元治元年)と1866年(慶応2年)に江戸幕府が倒幕勢力の中心であった長州藩を処分するために出兵した出来事です。
大政奉還
たいせいほうかん
1867年 「大政奉還」とは、1867年(慶応3年)10月に15代将軍であった「徳川慶喜」が「統治権を返上する」旨を記した書面を朝廷に提出し、その翌日「明治天皇」から許可が下りるまでの一連の出来事です。
戊辰戦争
ぼしんせんそう
1868年 1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。
明治政府
めいじせいふ
1868年 260年以上続いた徳川家による江戸幕府が終わり、1868年(慶応4年)1月、天皇を中心とした新しい政府「明治政府」が成立します。
西南戦争
せいなんせんそう
1877年 「西南戦争」とは、1877年(明治10年)の2月15日から9月24日まで続いた、日本国内で起こった最後の内戦。「西郷隆盛」が挙兵した戦い