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重要用語を抑えておけるタイピングです。みんなも一緒に覚えよう!テスト前に家でやるのに最適!タイピングが六十秒まで間に合わなければフラッシュカードで覚えてください。
用語一覧(26件)
安土桃山時代
あづちももやまじだい
織田信長から豊臣秀吉にかけての約30年間。信長が築いた安土城と、秀吉が京都の桃山に築いた伏見城に由来する。
織田信長
おだのぶなが
1560年、桶狭間の戦いで今川義元をたおし、「天下布武」の印を用いて天下統一の業をすすめた。 1573年、将軍足利義昭を京都から追放して室町幕府をほろぼし、近畿を平定した。 1575年、徳川家康と結び長篠の戦いで武田勝頼をやぶった。足軽の鉄砲隊により、 安土城を築き、交通を整備し関所を廃止し、楽市・楽座令で商工業の発展を図った
豊臣秀吉
とよとみひでよし
本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀をたおし、織田信長の後継者となった。 大阪城を築き、関白・太政大臣となった。 1590年、北条氏(小田原)をほろぼし、東北の伊達氏をしたがえて、全国統一を完成した。
太閤検地
たいこうけんち
秀吉が、土地と農民を支配するために全国的に行った検地。これによって荘園制がなくなった。 長さ・面積・量の単位を統一し、土地を収穫高(石高)で表し、耕作者を検地帳に登録した。 太閤・・・関白をやめたあとの尊称。
刀狩り
かたながり
秀吉は、1588年、刀狩令を出して、農民から武器を取りあげた。農民の一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしたもの。 太閤検地と刀狩りによって、農民と武士の身分がはっきり区分された(兵農分離)。
宣教師の国外追放
せんきょうしのこくがいついほう
はじめはキリスト教を保護していた秀吉は、九州平定のとき、長崎が教会領になっていることを知り、国内統一のさまたげになると考え、1587年に宣教師の国外追放を命じた。
関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい
豊臣秀吉の死後、徳川家康の勢力がまし、豊臣方の石田三成は兵をあげてこれをほろぼそうとした。 1600年、全国の大名たちが豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)に分かれて関ヶ原(岐阜県)で戦った。「天下分け目の戦い」といわれ、家康が勝った。
徳川家康
とくがわいえやす
三河(愛知県)の小さな大名だったが、織田信長の統一事業にしたがって手柄をたて、ついで豊臣秀吉にもつかえて重く用いられた。 関ヶ原の戦いに勝ち、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。以後の約260年間を江戸時代という。
江戸幕府の仕組みと幕藩体制
えどばくふのしくみとばくはんたいせい
中央に老中・若年寄、寺社・町・勘定の三奉行などをおき、京都に京都所司代をおいた。 全国を幕府領と大名領に分け、将軍と大名が土地と人民を支配した。幕府領は、天領(直轄領)と旗本領をあわせ、全国の4分の1をしめた。 大名は、徳川将軍家との関係から、親藩・譜代・外様の三つに区分された。将軍直属の家臣として、旗本・御家人がいた。
参勤交代
さんきんこうたい
3代将軍徳川家光のとき、武家諸法度のなかに参勤交代の制度が定められた。 全国の大名を1年おきに江戸と領地に住まわせ、その妻子を江戸に住まわせた。往復で大名行列が行われ、交通が発達し、文化が地方に広まった。
武家諸法度
ぶけしょはっと
1615年に、大名を取りしまるために定めた。将軍の代替わりごとに発せられ、違反者はきびしく罰せられた。
朱印船貿易
しゅいんせんぼうえき
徳川家康は、海外渡航を許可する朱印状を発行し、貿易を保護した。 九州の大名や角倉、茶屋、末吉などの京都・大阪の大商人が、東南アジアに朱印船を派遣した。
キリスト教の禁止
きりすときょうのきんし
徳川家康は、貿易の利益を重くみて、はじめはキリスト教を認めたため、宣教師が多く来日し、キリシタンも増大した。 オランダが、スペインやポルトガルが布教によって領土をうばうつもりであると告げ、幕府もキリシタンが団結して反抗するのをおそれた。そして、1612年、家康は直轄地でのキリスト教の禁止を命じた。
踏み絵
ふみえ
キリシタンを発見するため、キリストやマリアの像をふませた。
島原の乱
しまばらのらん
1637年、九州の島原(長崎県)・天草(熊本県)地方の農民が、領主の圧政に対し反乱を起こした。 16歳の天草四郎を頭(かしら)とし、原城にたてこもったが、翌年、幕府軍にしずめられた。
鎖国
さこく
幕府は島原の乱が起こったことから、ますますキリスト教を警戒し、3代将軍家光は、1639年、ポルトガル船の来航を禁止して、鎖国を完成させた。 ついで1641年、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し、オランダ人を出島にとじこめた。鎖国後の貿易は、オランダと中国の2国になった。 鎖国により平和が続き、独自の文化が発達したが、海外への発展が停止する。
五人組
ごにんぐみ
村は、だいたい数十戸からなっていたが、幕府や藩は、5戸ぐらいを1組とする五人組をつくらせ、年貢の納入や防犯、キリスト教の禁止などに共同責任をおわせた。
年貢
ねんぐ
検地帳に登録された農民(本百姓)は、領主に年貢を納める義務があった。 年貢は米で納めるのが原則で、収穫高の4割前後(四公六民)、5割前後(五公五民)など、藩によって、年によってちがいがあった。
国学
こくがく
日本の古典を研究し、日本古来の考え方を究明する学問。江戸中期以降に発達した。 本居宣長が「古事記伝」を書き、国学を大成した。 幕末の尊皇攘夷論に影響をあたえた。
蘭学
らんがく
オランダ語を通じて学ばれたヨーロッパの学問や文化。8代将軍徳川吉宗が、キリスト教に関係のない洋書の輸入を許可した。 関孝和・・・数学(和算) 杉田玄白・前野良沢・・・「解体新書」 平賀源内・・・エレキテル 伊能忠敬・・・「大日本沿海輿地全図」
百姓一揆、打ちこわし
ひゃくしょういっき、うちこわし
百姓一揆・・・農民が年貢の軽減や村役人の不正などをうったえて、集団で領主に反抗した。 打ちこわし・・・都市部で、町人や農民が集団で米屋や大商人をおそい、家屋や家財を破壊した。
大塩平八郎の乱
おおしおへいはちろうのらん
1837年、元幕府の役人で陽明学者の大塩平八郎が、同志の人々約300人とともに、ききんで苦しむ人々を救うよう幕府にせまる乱を大阪で起こした。乱は半日で鎮圧され、大塩は自殺したが、幕府や社会にあたえた影響はひじょうに大きかった。
アヘン戦争
あへんせんそう
1842年、アヘン戦争で中国(清)がイギリスに敗れた後、幕府は異国船打払令をゆるめた。
ペリーの来航
ぺりーのらいこう
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4せきをひきいて浦賀(神奈川県)に来航。幕府に国書を提出して、日本の開国を強く求めたが、幕府は翌年に回答することを約束して、ひとまずペリーを帰らせた。
日米和親条約
にちべいわしんじょうやく
1854年、ペリーが再び来航し、幕府に強く回答を求めた。幕府はやむなく日米和親条約を結び、下田(静岡県)・函館(北海道)を開港した。これによって、約200年間の鎖国が終わった。
日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく
1858年、大老の井伊直弼とアメリカ総領事ハリスが日米修好通商条約を結び、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開いた(下田は閉鎖)。 アメリカの治外法権を認め、日本に関税自主権のない不平等な条約だった。 つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような修好通商条約を結んだ(安政の5カ国条約)。