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歴史のべんきょー
用語一覧(29件)
784年、桓武天皇は長岡京に遷都した
ななひゃくはちじゅうよねん、かんむてんのうはながおかきょうにせんとした
桓武天皇は父光仁天皇の施政方針を受け継いだ
かんむてんのうはちちこうにんてんのうのしせいほうしんをうけついだ
長岡京は山背国にある
ながおかきょうはやましろのくににある
785年、造長岡宮使である藤原種継が暗殺された
ななひゃくはちじゅうごねん、ぞうながおかきゅうしであるふじわらのたねつぐがあんさつされた
藤原種継暗殺への関与を疑われ、桓武天皇の弟の早良親王が幽閉された
ふじわらのたねつぐあんさつへのかんよをうたがわれ、かんむてんのうのおとうとのさわらしんのうがゆうへいされた
早良親王が幽閉される際、旧来の豪族である大伴氏、佐伯氏が衰退した
さわらしんのうがゆうへいされるさい、きゅうらいのごうぞくであるおおともし、さえきしがすいたいした
藤原種継は藤原式家である
ふじわらのたねつぐはふじわらのしきけである
藤原種継は藤原宇合の孫で藤原仲成・薬子の父である
ふじわらのたねつぐはふじわらのうまかいのまごでふじわらのなかなり、くすこのちちである
794年、和気清麻呂の建議により、平安京への遷都が行われた
ななひゃくきゅうじゅうよねん、わけのきよまろのけんぎによりへいあんきょうへのせんとがおこなわれた
平安京遷都により、山背国は山城国に改められた
へいあんきょうせんとにより、やましろくにはやましろのくににあらためられた
慶滋保胤の「池亭記」には、低温で居住に相応しくない右京の荒廃した様子が窺われる
よししげのやすたねのちていきには、ていおんできょじゅうにふさわしくないうきょうのこうはいしたようすがうかがわれる
780年、蝦夷の首長伊治此麻呂は、按察使紀広純を殺害し、一時は多賀城を陥れた
ななひゃくはちじゅうねん、えみしのしゅちょうこれはりのあざまろは、あぜちしきのひろずみをさつがいし、いちじはたがじょうをおとしいれた
780年当時の天皇は光仁天皇
ななひゃくはちじゅうねんとうじのてんのうはこうにんてんのう
朝廷は788年紀古佐美を征東大使とし翌年東北地方に派遣したが阿弖流為に撃退された
ちょうていはななひゃくはちじゅうはちねんきのこさみをせいとうたいしとしよくねんとうほくちほうにはけんしたがあてるいにげきたいされた
797年に坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、蝦夷平定にあたった
ななひゃくきゅうじゅうななねんにさかのうえのたむらまろはせいいたいしょうぐんとなり、えみしへいていにあたった
桓武天皇の時、蝦夷平定のため坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された
かんむてんのうのとき、えみしへいていのためさかのうえのたむらまろがせいいたいしょうぐんににんめいされた
802年、坂上田村麻呂は、阿弖流為の率いる蝦夷を投降させた
はっぴゃくにねん、さかのうえのたむらまろは、あてるいのひきいるえみしをとうこうさせた
802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に胆沢城を築き、そこに鎮守府を移した
はっぴゃくにねん、さかのうえのたむらまろはきたかみがわのちゅうりゅういきにいさわじょうをきずき、そこにちんじゅふをうつした
803年には胆沢城の北方に対蝦夷戦争の前線拠点として、志波城が置かれた
はっぴゃくさんねんにはいさわじょうのほっぽうにたいえみしせんそうのぜんせんきょてんとして、しわじょうがおかれた
811年嵯峨天皇の命を受けた文室綿麻呂が蝦夷を征討して以降蝦夷の征討はなくなった
はっぴゃくじゅういちねんさがてんのうのめいをうけたふんやのわたまろがえみしをせいとうしていこうえみしのせいとうはなくなった
平安時代初期、日本海側では米代川流域まで政府の支配が及ぶようになった
へいあんじだいしょき、にほんかいがわではよねしろがわりゅういきまでせいふのしはいがおよぶようになった
蝦夷征討の結果、帰順同化した蝦夷は俘囚とよばれた
えみしせいとうのけっか、きじゅんどうかしたえみしはふしゅうとよばれた
東国から移住させて開拓と防衛に当たらせた農民を柵戸という
とうごくからいじゅうさせてかいたくとぼうえいにあたらせたのうみんをさくこという
878年には元慶の乱がおこり、秋田城が焼き討ちにあった
はっぴゃくななじゅうはちねんにはてんぎょうのらんがおこり、あきたじょうがやきうちにあった
桓武天皇は、勘解由使という令外官を設置して、国司の交代を厳しく取り締まった
かんむてんのうはかげゆしというりょうげのかんをせっちして、こくしのこうたいをきびしくとりしまった
国司が在任中に不正がなかったことを示す証明書を解由状という
こくしがざいにんちゅうにふせいがなかったことをしめすしょうめいしょをげゆじょうという
792年、九州・東北以外の諸国では軍団を廃止して、健児の制という兵制を導入した
ななひゃくきゅうじゅうにねん、きゅうしゅうとうほくいがいのしょこくではぐんだんをはいしして、こんでいのせいというへいせいをどうにゅうした
792年に採用された新たな兵制では、郡司の子弟などが健児に採用された
ななひゃくきゅうじゅうにねんにさいようされたあらたなへいせいでは、ぐんじのしていなどがこんでいにさいようされた
健児の制では、健児を60日交替で国府などの警備に当たらせた
こんでいのせいでは、こんでいをろくじゅうにちこうたいでこくふなどのけいびにあたらせた